最新作『ウェスト・サイド・ストーリー』も話題のスティーブン・スピルバーグ監督。
商業映画の帝王として映画監督としてのキャリアがはじまり、その後戦争を題材にした名作映画も数多く手掛けるようになりました。
デビューした70年代から現在まで、長きに渡り第一線で活躍を続けているため、古くからの映画ファンと比較的新しい映画ファンではスピルバーグ監督に対する印象が少し異なるかもしれません。
今回はそんな「現代最高の映画監督」スティーブン・スピルバーグ監督をご紹介します。
目次
フィルモグラフィー(〜1993年)
まずはスピルバーグ監督の前期(〜1993年)フィルモグラフィーを確認しましょう。
- 1971:Duel(激突!)※テレビ映画
- 1974:The Sugarland Express(続・激突!カージャック)
- 1975:Jaws(ジョーズ)
- 1977:Close Encounters of the Third Kind(未知との遭遇)
- 1979:1941(1941)
- 1981:Raiders of the Lost Ark(レイダース/失われたアーク《聖櫃》)
- 1982:E.T. Extra-Terrestrial(E.T.)
- 1984:Indiana Jones and the Tenple of Doom(インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説)
- 1985:The Color Purple (カラー・パープル)
- 1987:Empire of the Sun(太陽の帝国)
- 1989:Indiana Jones and the Last Crusade(インディ・ジョーンズ/最後の聖戦)
- 1989:Always(オールウェイズ)
- 1991:Hook(フック)
- 1993:Jurassic Park(ジュラシック・パーク)
- 1993:Schindler’s List(シンドラーのリスト)
1993年『シンドラーのリスト』で最初のオスカーを獲得するまでに絞ってみてもこの作品群です。これだけのヒット作を立て続けに量産できるのはスピルバーグ監督ただ一人ではないでしょうか。
恐怖映画やアクションアドベンチャー、さらにはSF映画で歴史に残る興行成績をいくつも打ち立てたかと思うと、ドラマチックな作品やシリアスな戦争映画までこなします。
とくに1993年はスピルバーグ監督の特異性を最も象徴しています。
『ジュラシック・パーク』シリーズの第1作目で歴代最高興行収入を記録しておきながら(『タイタニック』に抜かれるまで首位)、『シンドラーのリスト』でアカデミー監督賞を受賞してしまいます。
映画監督という職業の最終形態といってもいい存在ではないでしょうか。
さらに自分自身では監督こそしないものの、制作総指揮として関わる作品はここにあげた作品数の比ではありません。しかもどれもヒット作ばかり。
キリがないのでここでは監督としての能力に焦点を絞りますが、最終形態どころか映画産業の神といっても過言ではない存在です。
完璧すぎて映画ファンからは面白がられないことを覚悟しながらも、引き続きスピルバーグ監督をご紹介します。
エピソード
スピルバーグ監督はほかの名監督たちがそうであるように、やはり子供の時から家にあるカメラで映画を作って遊んでいました。
1946年生まれのスピルバーグ監督が9歳のとき、監督の母親が父親に送った父の日のプレゼントこそがムービーカメラでした。
すぐにスピルバーグ監督はそのカメラを借りて、作品づくりに没頭します。
11歳のときにはすでに9分間の西部劇をボーイスカウト仲間に上映して喝采をあびます。
その瞬間に人生をかけてやりたいことを知った:スピルバーグ監督
『Who Is Steven Spielberg? (English Edition) 』著Stephanie Spinner
最初の長編映画『ファイアーライト』
少年時代にいくつもの短編を作りあげたスピルバーグ監督は、16歳のときに初めて長編SF映画を1年がかりで完成させます。
父親に500ドルの出資をしてもらい、総予算800ドルで作り上げた映画だったそうです。
映画が完成すると父親は上映会をおこなうために劇場を借りてくれました。そのうえ母親は満席にするために近所中の人を招待したそうです。
上映会となった1964年の3月2日、家族4人(妹も含む)はリムジンバスを借りて映画館に向かいました。
それからしばらくして両親が離婚を選んだことで、この日の記憶はスピルバーグ監督の心に深く残ることになります。
スタジオ侵入
サンフランシスコで父親との二人暮をしていた高校3年の夏、スピルバーグ監督はユニバーサルスタジオの見学ツアーに参加します。
自由に見て回りたいと思ったスピルバーグ監督は、トイレ休憩中に団体ツアーから逃亡。スタジオ内をウロウロしていたところを、ある男性スタッフに見つかってしまいます。
ところがスピルバーグ監督の情熱に負けて、その男性が3日間のフリーパス券をくれたというから驚きです。
それ以降、味をしめたスピルバーグ監督は何週間も大手を振ってスタジオに出入りすることになります。
そのうえ空いている事務所を見つけると、そこを勝手に自分の拠点にしてスタジオを自由に見てまわり映画の勉強をしたそうです。
初の35ミリ映画『アンブリン』
勉強不足で希望の大学(映画学科のある大学)へは行けず、ロングビーチ大学の英語専攻へ進んだスピルバーグ監督は、学校へはろくに行かずにスタジオへの出入りを続けます。
これまで作った8ミリ映画で就活をおこなっていると、ついに35ミリフィルムで「アンブリン」という短編を作る機会を得ます。
「アンブリン」は一定の評価を得ることに成功し、ユニバーサルと7年間の契約を取り付けました。
1986年にスピルバーグ監督が設立したアンブリンエンターテイメントとは、この映画がもとになった名前です。
特徴
苦手なジャンル
サスペンスからSF映画まで、何を作らせても大ヒットをさせるスピルバーグ監督ですが『1941』はめずらしく興行的に失敗に終わりました。
この失敗でコメディタッチの作品は自分に向いていないということを自覚したそうです。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズや、『メン・イン・ブラック』シリーズなどコミカルな作品では制作総指揮として関わるようになったのはそのためです。
『カラーパープル』
スピルバーグ監督はハリウッドから嫌われていると噂される時期がありました。
『カラーパープル』がアカデミー賞で10部門にノミネートされながら、監督賞ではノミネート入りすらできなかったのがその理由です。そのうえ10部門すべてで受賞を逃してしまいました。
いまから40年ほど昔にマイノリティを描いた映画であることを思えば、理由はスピルバーグ監督だけではないような気もします。
おすすめ作品
フィルモグラフィーを見ても分かるように、スピルバーグ監督の映画でおすすめできない映画はありません。
ある意味でもっとも作品選びに間違わない監督といえるのではないでしょうか。
ここではそんなスピルバーグ監督の前期作品の中でも、とりわけ難産だった2作をご紹介します。
ジョーズ
スピルバーグ監督にとって最初の大ヒット作であり、いきなり世界中の興行記録を塗り替えることになった作品です。
実は映画デビュー作となった『続・激突!カージャック』(日本では『激突!』の続編を匂わせていますが、一切関係ありません)は興行的に失敗でした。
スピルバーグ監督は『ジョーズ』でもミスをすれば、二度と映画を撮らせてはもらえないという覚悟で作品に挑んだそうです。
当初の予定では大掛かりなサメの装置に頼った、もう少しモンスター映画じみた作品だったそうです。ところが装置は故障続きで予算もないため、仕方なく姿の見えない巨大ザメという映画になったとのこと。
海面下の見えない恐怖、この怖さは計画的なものではなかったのかもしれません。
シンドラーのリスト
スピルバーグ監督の父方の親戚はホロコースト当時、ロシアやポーランドで暮らしていました。そこでナチスによって何人も命を奪われたのです。
自分が作ってるものだって気がしないね。自分が撮ったことを思い出せないんだ
スピルバーグ監督
日本版プレミア1994年5月号より
ロケ地となったポーランドのクラクフに残る根深い反ユダヤ、世界ユダヤ人会議からの抗議など多くの困難を乗り越え映画は完成しました。
そしてこの作品はスピルバーグ監督に初めてのアカデミー監督賞をもたらしたのです。
どれだけ辛くても観なければいけない映画がこの世には存在します。
<後編>ではドリームワークスに参画したスピルバーグ監督についてご紹介しています。<スピルバーグ監督紹介 後編(1997年以降)>をご覧ください
参考文献:『Who Is Steven Spielberg? (Who Was?) (English Edition)』著Stephanie Spinner