サイコスリラーの金字塔『セブン』。デビッド・フィンチャー監督の実質的なデビュー作は、恐るべき結末をむかえることでとても有名な作品です。
下手なホラー映画よりも恐ろしく、観る者を恐怖に陥れる仕掛けがいくつも隠されています。
さらにラストシーンには、触れられていない謎が存在します…。
わたし”Visuword”は映画を1カットずつ検証することで、監督の意図を探ろうと試みています。
感想や批評ではなく、映像の中にあるヒント(事実)から映画を解説します。
今回は恐ろしくて最高な『セブン』を深く読み解いてみたいと思います。
映画の結末には触れませんが、ご覧になってからお読みいただくことをオススメします。
目次
『セブン』の背景
まずは『セブン』の背景を簡単におさらいしましょう。
- 1995年公開
- 監督:デビッド・フィンチャー
- 主演:ブラッド・ピット、モーガンフリーマン、グウィネス・パルトロウ、ケビン・スペイシー
- 脚本:アンドリュー・ケビン・ウォーカー
- 撮影:ダリス・コンジ
監督デビッド・フィンチャーは、ミュージックビデオやCM出身の映像派監督。1992年にエイリアン3ですでにデビューを果たしていましたが、本人がデビュー作と認めていません。
その辺りの詳細は《「鬼才」にして「完璧主義」デビッド・フィンチャー 作品の特徴》で触れていますので、そちらでご確認ください。
制作の苦労
実質のデビュー作となった『セブン』ですが、制作予算が足りずにオープニングシーン(サマセットが引退後に購入する家の内覧を終えて、都市に戻る列車のシーン)の撮影を断念しています。
エイリアン3の評判が良くなかったために、スタジオから完全には信用してもらえなかったようです。
ラストシーンのためにヘリを飛ばす予算もなく、ヘリからのの視点が必要であることを理解してもらうための仮編がセル版の映像特典に残っています。
ジョン・ドゥ
恐るべき殺人鬼ジョン・ドウを演じているケビン・スペイシーですが、公開当時は『セブン』に出演していることを隠していました。
映画のオープニングクレジットからもケビン・スペイシーの名前は外されています。
映画ファンであれば出演者にケビン・スペイシーの名前を見れば、映画を途中まで見た段階で「おや?犯人はスペイシーだな。もしかしたらあいつ…」とか想像できてしまうからです。
ケビン・スペイシーは『セブン』公開と同じ年に、『ユージュアル・サスペクツ』でジョン・ドゥよりもさらに謎に満ちた男カイザー・ソゼを演じてアカデミー助演男優賞を受賞しています。
同じ年にジョン・ドゥとカイザー・ソゼを演じたなんて、レクター博士とアントン・シガーを連続で演じるくらいすごいことです。
映像の中の仕掛け
この恐ろしいサイコスリラーには監督デビッド・フィンチャーによる企みがいくつも存在します。
殺害現場
7つの大罪をなぞるように繰り返される7日間の殺人事件。この映画では次つぎに凄惨な殺害現場が描かれます。ひとつひとつの恐ろしいこと…。
そして殺人事件が発生するたびに、刑事ミルズが現場に向かう様子が長々と描かれます。それぞれのシーンにおける時間はおおよそ以下の通り。
暴食(1分45秒)、強欲(45秒)、怠惰(2分15秒「SWATの突入」)、色欲(45秒)。
デビッド・フィンチャー監督は観客を恐怖させるために、死体をすぐには見せてくれません。
ほら来るぞ来るぞ、つぎはもっと怖い現場が来るぞ。
これはホラー映画によく使われる手法です。殺人鬼が潜む森の中を、次の犠牲者が逃げてゆくシーンを見たことがありませんか?
4回目となる「色欲」の殺害現場に向かうころには、観客の心身もぐったりです。
黒よりも暗く
この映画を分析してすぐに、ローアングルが多いことに気付きます。本来であれば登場人物の存在を大きく、強く見せる効果があるアングルです。
ところがこの映画のローアングルにはそこに必然性を感じません。
『セブン』におけるローアングルの目的、それは闇を見せるためです。
監督はコメンタリーの中で、映画における黒と劇場の闇を同化させる意図があったことを認めています。そのためフィルムを銀のこしといわれる特殊な方法で現像をしています。
コントラストを強くして黒を本物に近づけることで、現実との境界を曖昧にしたいという目的がありました。
手を伸ばしたその先に、凄惨な殺害現場が…想像しただけで怖いです。
監督の意図を汲んでこの映画を最大限に楽しむのなら、部屋をできる限り暗くしてご覧いただくことをおすすめします。
『NoKey』
映画と同じくらい恐ろしくて有名なのが、カイル・クーパーによるオープニング映像です。
開始5分でヤバいものを観に来てしまったかもしれないと、逃げ出したくなった記憶がわたしにもあります。
ジョン・ドゥの活動を狂気に満ちた映像で表現しており、本編の容赦ない内容を暗示しています。
ソウル・バス以降の映画タイトル業界において、オープニングクレジットに再び脚光を浴びさせることになりました。
このオープニング映像の一番最後に、2フレだけインサートされているのが『NoKey(鍵はない)』という言葉です。
人間の目には認識されない速さでインサートされた『Nokey』のサブリミナル文字。
ジョン・ドゥによって書かれたこの言葉は、逃げ場を探してもムダだと言われている気がします。
結末に隠された謎とは?
この映画が伝説となった大きな要因は、その驚くべき結末です。
別の終わり方を求めたスタジオに対しても、監督は断固として譲らなかったそうです。
あまりの衝撃からか、その後さまざまな解釈が論じられているのもこの映画の面白い点です。
ここではジョン・ドゥの7つの殺人が本当に完成したのかどうかに焦点をしぼって解説してみたいと思います。
未発見の死体
7つの大罪になぞらえた殺人は完成したのかどうか、争点は最後に残された「嫉妬」と「憤怒」の2つの解釈によります。
「嫉妬」はジョン・ドゥによって説明がされますが、「憤怒」の罪をおかしたのが誰なのかについては解釈が分かれます。
そうして未発見の犠牲者が存在するのではないかという説が登場したわけです。
ジョン・ドゥの行動をカレンダーに当てはめていくと、実は水曜だけが空白になります。
ジョン・ドゥはこの連続殺人を1年以上前から計画しており、月曜から始まった事件の最初の犠牲者は日曜のうちに殺された「強欲」の弁護士であることが分かっています。
それなのに水曜だけなんの行動も起こさなかったとは考えにくい。
計画的なジョン・ドゥは水曜に未発見の殺人「憤怒」をおこなっていたとする説の根拠がここにあります。
ところがこの説は、映画のある場面で明確に否定されます。
ジョン・ドゥの住処を突き止めたミルズとサマセットは、そこに現場から持ち去られた品が記念碑的に飾られているのを発見します。
「色欲」の殺人がまだ行われていないことからも、犠牲者がまだ3名であることに疑問の余地はありません。
つまりジョン・ドゥに殺された行方不明の死体は存在しないのです。
最初から狙われていた男
それでは「憤怒」の犠牲者はだれだったのか?
その答えはジョン・ドゥの部屋に残されていた写真にあります。
ジョン・ドゥは犠牲者を記録し続けています。そしてその部屋には現像されたばかりのミルズの写真が残されていました。
彼がリスクを冒してまで「怠惰」の現場に戻って、ミルズを写真におさめた理由はなんだったのでしょうか?
もし「憤怒」の計画が進んでいたのであれば、警察は部屋に残された手がかりからそれを発見したはずです。そうでないなら答えはひとつ。「憤怒」は動き出す直前だったということです。
写真の中のミルズは「憤怒」にうってつけの表情をしていると思いませんか?
ミルズ(担当刑事)こそが「憤怒」の対象だったことは言うまでもありません。
計画は成功か? 失敗か?
金曜にミルズとサマセットがジョン・ドゥの住処を見つけ出さなかったとしたら、計画はどうなっていたのでしょうか。
ジョン・ドゥの部屋で警察は「嫉妬」と「憤怒」には別の候補者がいたという手がかりを見つけられていません。
やはり「嫉妬」はジョン・ドゥが、「憤怒」はミルズがその役割を担う予定だったのでしょう。
ジョン・ドゥが路地裏で追い詰めたミルズにとどめを刺さなかった理由も、おそらくは「憤怒」のためではないでしょうか。
それでもわたしはジョン・ドゥの計画が成功だったとは思えません。
「憤怒」の犠牲となって死ぬのはミルズであるべきだった。ジョン・ドゥは心の中でそう思っていたはずです。復讐だなんてのは、計画が崩れてしまったジョン・ドゥの言い訳にすぎません。
でなけばまだなんの罪も犯していない命が「憤怒」の犠牲となるはずはないからです。
映画をご覧になった方であれば、この意味がお分かりいただけるのではないでしょうか。
悲しい結末ではありましたが、ジョン・ドゥの計画は失敗だったとわたしは思います。